熊本県の概要
九州のほぼ中央に位置し、温暖で雨の多い気候です。世界最大級のカルデラを持つ阿蘇山が知られています。全国有数の農業県であり、車エビなどの養殖業も盛んです。また、上水道用水の地下水依存度が、県都・熊本市でほぼ100%、県全体でも約8割と、良質の水に恵まれています。現在はハイテク産業や輸送機械の企業誘致を積極的におこなっており、最近では太陽電池関連産業の振興にも力を入れています。
熊本県のあゆみ
熊本県の領域はかつての肥後国の領域にほぼ重なります。古代においては、「火の国」または「肥の国」と呼ばれていました。肥の国はやがて現在の佐賀県・長崎県の地域をも含むようになり、7世紀終わりごろに肥前国と肥後国に分けられました。
鎌倉時代には武士たちが地頭や守護に任命され、阿蘇氏や菊池氏、相良氏が各地で勢力拡大しました。さらに南朝方の名和長年の子孫である名和氏も領地がある八代に移りました。戦国時代に至って、相良氏は名和氏を追い肥後国南部を支配しました。しかし、北部では菊池氏や阿蘇氏の家中がしばしば乱れ、豊後守護の大友氏の介入を招くなどしたため、有力な戦国大名が現れず、国人が割拠する状態が続きました。
天正15(1587)年、九州を平定した秀吉は、佐々成政を肥後の国主に任じましたが、太閤検地に反対する国人たちによる一揆が起こりました。秀吉は成政にその責任を負わせて切腹を命じた上、一揆に参加した国人たちを徹底的に弾圧し、反対勢力を一掃しました。その後、秀吉は北半分を加藤清正、南半分を小西行長に分け与え、球磨郡においては相良氏の支配を認めました。
小西行長が関ヶ原の戦いで敗れ滅亡すると、加藤清正がその領地を併せ52万石の領主となりました。清正は名城熊本城を築き、また河川・水路を改修して耕地を広げ生産力の向上に努めたため治水の名人として崇められました。しかし、清正の死後、息子忠広の代に改易され、代わって細川氏が54万石の領主となりました。
明治4年(1871)、肥後国には熊本県と八代県が設置されました。熊本県はその後白川県と改められ、明治6年(1873)、白川県と八代県が合併して白川県となりました。明治10年(1877)、再び熊本県に改名され、現在の熊本県が誕生しました。
熊本県の名前の由来
豊臣秀吉により肥後に封ぜられた加藤清正が「熊本」という文字を使ったといわれています。
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熊本市立熊本博物館 |
| 住所: |
〒860-0007
熊本県熊本市古京町3-2 [地図を見る] |
| 電話番号: |
096-324-3500 |
| 開館時間: |
9:00-17:00(入館は16:30まで) |
| 休館日: |
毎週月曜日
年末年始(12月29日〜1月3日)
保守点検日(7月第3週の月曜日から木曜日まで) |
| 入館料: |
大人・高校生 300円
小・中学生 100円 |
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